「あれ、銀さん?」 呼ばれて振り返り俺はひっそりと眉を潜めた。 その日はびっくりするぐらいにツイていない日で、何がどうツイていなかったかというと、久しぶりに入った謝礼金を男のロマン、博打に注ぎ込み挙句の果てには財布が凍え、あぁあそこでやめておけばよかった、いやでも今からでも巻き返せるかもとほとんどその場の勢いで残りの金までつぎ込んでみたものの、結果は財布が氷河期を迎える結果、= 家計が火の車どころではなくなってしまった。 それはそれで日常時々稀に起こる現象だったからまだあの地平線に広がる海のように広い俺の心までは凍てつかせることはなかったのだが、手ぶらで戻ってきた俺に対するあの、居候共の冷たい視線、大家の罵声を心と身体深く抉られるように浴びせられ、自宅近くにとめておいたはずの原付まで切符を切られ、その所為で夕方のタイムセールを逃し、とぼとぼとこれまた手ぶらで帰って来てみれば 何を思ったのか大家が突然家賃の徴収をすると言い始め、待ってくれこの間お前さんのHDDレコーダー直してやっただろう、それから宅配だってやっただろうと噛み付いてみたはいいもののそんなものでチャラにしてくれるほどの器じゃないのは俺がよくよーく知っている事で、あの冬の寒空の下 金が揃うまでは戻ってくるな と追い出されてしまう始末。 それだけでは俺の不運は飽き足りなかったのか、捨てられた子犬のように震え、都会の荒波にもまれそうになっていた俺の目の前に現れたのは悪友長谷川泰三。あぁ、運命の神様はとうとう俺のことを見殺しにしたんだ そう心の中でぼんやりと思った時にはすでに遅く、俺は、今、こうして、如何わしい風俗店の派手な看板を片手にかぶき町を行き交う人々に かわいい子いるよー 今ならサービスタイムだよー などと声をかけ続けているのであった。 「あー、っと」 「だよ」 忘れちゃったかな? そう彼女は少し困ったように笑って見せた。それを見たことによって凍てついた大海原よりも広い俺の心はさらに冷たく、木枯らしが吹き荒れた。 忘れるわけもなかったからだ。 どうして、今。このタイミングでこいつがこんなところにいるんだ。 そんなことしか頭になかったからだ。 「まだそこまでボケちゃねーぞ」 そう看板を肩に担ぎながら言ってみせると目の前のは屈託なく声を漏らし笑った。 その笑みはほとんど2年ぶりに見るものではあったが、全く変わっていないことに俺は心底驚いた。 「また変なバイトしてるね」 「バイトじゃねーの。俺の職業なの。これが」 は万事屋の事を昔から「変なバイト」と呼称していた。言われ始めた当初はいちいち口を挟んでいたが、いつしかそれも面倒な事となり、ついに否定も肯定もしなくなった俺がいけなかったのがその呼び名が彼女の中で定着してしまった。それは今も変わらないらしい。 「つか、何、そっちこそ何してんの」 「んー?」 歓楽街も近いこんな場所にどうしてがいるのか俺は不思議で仕方がなかった。 彼女はもったいぶるように首をかしげあたりをぐるりと見渡した。 そうしてたった一歩踏み出してその身体ごと俺の傍へと近寄る。 ふいに香った香りは昔のものとは違っていたことに気がついた俺は、気が疲れないよう息を呑んだ。 「実は最近ここらへんで仕事初めてね」 「……マジでか」 看板を担いだ手に少しの力が入る。強張った表情に無意識のうちになっていたのかはその瞳を輝かせ、にんまりと悪戯っぽく笑う。あぁこの仕草は変わらないのだな、そう俺の脳が認識し始めた時、彼女は乾いた声を上げて「そんなわけないじゃん」と笑みをこぼしながら口にした。 「ば、おま、脅かすなっつーの、今の迫真の演技は銀さんにしかできねーぞ」 「はいはい、銀さんはこう見えても心配性ですからね」 言って肩まである髪の毛をかきあげた。その時、左手の薬指に光るその、銀色の物体に俺の視線は奪われてしまった。今度は自分でも分かるほどに身体が強張ったのが分かった。 世間一般では、その指にはめるべき指輪という物体は、一生モンの相手との一生モンの約束を誓った時にするべき場所だ。別段、そういった風習を気にしない俺でもそんなことは世間一般のほとんど常識として捉えているのだから、俺よりも風習や習慣を重んじる傾向にあったがそう易々と左手の薬指なんぞに指輪をはめるわけがないのだ。 そう、認識した瞬間、俺は早いところこの場所を去ってしまいたかった。 銀さんはよく分からないよ そう数年前に告げられた言葉が脳裏を横切り、胸が心が、呼吸ができなくなりそうだった。 「…いつまでもこんなとこにいたら心配されんだろ」 きちんと話せたかは自信がなかった。 そう不自然に話が捻じ曲がってしまったけれどは賢い奴だったから、一瞬俺の瞳を覗き込むとまた辺りを見回して「そう、かもね」そう言って少しだけうつむいた。 そんな仕草が俺には左手につけていた指輪を見ている仕草に見えてしまって、更に息苦しくなり俺も視線を落とす。 「まだ、誰にも言ってないんだけどね、」 は顔を上げてしっかりとした口調で俺に何かを宣告しようとしていた。 なんとなくその先が分かってしまっていたので、耳を塞いでしまいたかったが、けれども俺はの続きを無言のままに待った。 「来年に、籍入れることになったの」 こういうとき、冷静でいられる自分が驚くほど気味が悪かった。 喜ぶべきことなのだろうが、しかしながら俺には祝いの言葉だとか、普通こういった場面でかけてやる言葉が思い浮かばなかった。かといって、悲しい気持ちになったりもしなかった。ただ、確かなのは胸の中にはぽっかりと空いてしまった穴があったように感じただけだった。 それが悲しいという気持ちなのか虚しいという感情であるのかは、当の俺にも分からなかった。 はそこまで言うと俺の言葉を待っているように思えた。 少ない脳みそを絞って何か声をかけてやらねば、と必死に模索する。 喉が渇いた。そう思った。 「そ、か、 まぁよかったじゃねーか」 なんて陳腐な。 そう思ったが考えないようにしてそのまま勢い任せに、みたいな奴でも嫁に貰ってくれる奴は奇特な奴だ、とか、元気な子を産むんだぞ、だとか、本当に勢いに任せて矢継ぎ早に口にした。 そんな俺を見ては以前と変わらない笑みを浮かべながら、一言だけ「ありがとう」とはっきり口にしたのだ。 ちょうどタイミングよく鳴り響いた携帯はの鞄から聞こえてきたもので、 俺は「行けよ、こんなとこにいるのバレたら入籍破棄されるぞ、」と脅してやると彼女は困ったように笑い「銀さん、」そう聞きなれた声で俺の名前をはっきりと口にした。 「一番初めに銀さんに伝えられてよかった」 そしてもう一度 ありがとう と口にすると律儀にお辞儀をして俺に背を向けてしだいにの背中は見えなくなった。彼女の背中が見えなくなるまで俺はずっと目を離すことができなかった。俺に一番初めに報告できたことがよかったとが感じているという事が、俺にとっては、本当に本当に勿体無い言葉なのだ。 彼女の言うところの「変なバイト」でその日を生きていく俺ではなく、他の誰かを選んで正解だった。と心底思う。けれども、俺の中では数年前から変わらずただ俺が忘れてしまっていた、この苦い感情が久しぶりに蘇った。 肩に力が入っていたのだろう、の背中が見えなくなった辺りで急に疲れが襲ってきた。 自分を落ち着かせるよう、俺は深呼吸をして冬のあの独特のひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込む。 そうして、また俺は看板を担いで道行く人に声をかけ始める。 ひんやりとした空気に、自分で言うのもなんだが、俺の声はやけに響いていた。 |