「銀さーん、銀さーん」 ぺちぺちと頬にやってくるひんやりとした感覚に目を覚ます。 うっすら目を開けるとそこにはの顔があった。 「…あぁ?」 目をこすりながら上体を起こす。 ズキンと頭が響く。 なんでがこんなとこにいるんだ。そんでなんで俺はソファに寝てるんだ… そう考えて、ふっと昨日の事を思い出して一気に目が覚める。 いつ眠ったのかすらも覚えていない。けれど俺の身体には薄いタオルケットがかかっていた。がかけたもの、なんだろうな。首の後ろをさすりながらすっかり身支度を整えたに眠い声を絞りだし「風呂、だけ」そう告げた。は笑って「待ってるね」そう呟いた。 風呂に入りに行く途中で視界に入れた時計は朝の8時をさしていた。 今日が一体何日で何曜日なのかもわからない。カレンダーはこの間破ってからとまっていたからだ。 体中に浴びるシャワーで目が覚める。けれど頭を時々襲う頭痛の類は取れないままだ。 まいった。足元を流れる水面を見つめながら、昨日あんなことをしたを相手に一体どんな顔をして、どんな風に接したらいいのかわからないでいた。そんな俺とは対象的には普段と変わらない態度で逆に俺が戸惑ってしまう。どうしたらいいのか、わからない。 「…くそ、」 そう呟いて、シャワーを止めた。 居間に戻るとはおとなしくソファに座っていた。 テレビをつけるでも、なにをするでもなく一人でぼーっとしていた。 首からかけたタオルで濡れた髪の毛を乾かしながらそんなの横顔を見て、彼女も実は俺と同じ気持ちなんじゃないだろうかと考えた。そう考えれば考えるほど昨日の俺の行動が浅はかに見えて仕方がない。 俺の気配に気がついているのか気がついていないのかは分からないがじっと動かないの背後を通り過ぎそのまま自室へ入る。布団は綺麗に片付いていた。 「待たせたな」 そう言えばは背中越しに振り返った。 その瞳には疲れさえ見え隠れしていた。 「ううん、じゃ、行こうか」 もしかして眠ってないんじゃないか、そう心のどこかで思ったが、必死に否定した。 昨日ほどとは言わないが今日もなんとも夏らしい一日だった。 じっとりと肌に纏わりつくような湿気。けれども時折吹く風がひんやりと冷たいものに変わってきている。秋が近いんだろうか。数歩前を歩くの背中を見つめながら俺がこれから一体どこへ連れて行かれるのか、想像するが色んなところが思い浮かんで定まらない。 駅に着いて券売機のところで「南坂までね」とは言った。 聞いたことのない地名だったが何とか見つけ出し切符を買う。 独特の揺れを身体で感じながら、ゆっくりとした足取りで近づいてくる睡魔に打ち勝とうと色々な事を考える。隣に座るはじっと前だけを見詰め時折移り変わる風景を目で追っているようだった。 電車の中でも俺とは特に話はしなかった。 思えばこんなことは出会ってから初めてのような気がする。 それほどまでに昨日の出来事が俺との双方に何かを与えたということだ。 起こした張本人がこんなことを思うのはおかしいのかも知れないが、少し居づらい空間だった。 電車を一本乗り継いで、3駅行ったところでアナウンスが目的地である「南坂」と告げた。 「次?」 「うん」 久しぶりに交わした会話はすぐに切れてしまったがが笑顔だったから別にそれでもよかった。 カランコロンと下駄がなる。 初めて降り立ったその土地は日本の情緒溢れる古い町並みがずっと続いていた。 古都、とでも言おうか、町並みは写真でしか見たことしかない京の町並みに似ていた。 朝出てきたかぶき町よりも涼しいと思えるのは、その町並みの所為なのかはわからない。 目的地があるは確実な足取りで数歩前を歩く。俺は見慣れない町並みに目を奪われ、瞳が忙しなくあちらこちらへ動く。木々が多い。だから、涼しいと思えるのか。 それから10分程歩いた所にお寺らしき建物が見えてきた。 まさか、と俺は予期せぬ場所へ連れて行かれているんだと思い始めひっそりと息を潜める。 の両足は迷うことなくその敷居を跨ぐ。 そうして敷地内に立てられている一軒家のインターホンを鳴らし、中から女が出迎えの顔をみて「いらっしゃいさん」と言った。「ご無沙汰しております」そう頭を下げるをじっと見つめながら、俺だけが場違いなんじゃないかと思えてきた。一つの可能性にすでにぶち当たっていた俺は胸が締め付けられるような感覚に襲われていた。出迎えた女から花束を受け取り、はまた頭を下げる。 中にいた女と目が合い、俺は軽い会釈をしが歩き出すのでそれに着いていった。 こんな辛気臭いところはあまり好きではない。 黒く光る石ばかりが立ち並ぶ。俺の手には水が入った木製のバケツが握られている。 もう俺はこの結果が一体なんなのかわかってきてしまっていて、正直帰りたかった。 そうしてはある一つの墓石の前で立ち止まり、息を吐いた。 そこには「一之瀬」と彫ってあった。 迷うことなくは手にしていた花を生け始め俺はその姿をじっと後ろから見つめていた。 胸が、痛い。 その作業が人段落したのかはしゃがみこんだまま口を開く。 「…3ぐらい年前、になるのかなぁもう」 手にしていた水は彼女が欲しいというので、彼女の近くの足元へ置かれていた。けれども俺は立ち尽くした位置から動けずに、その場に立ち尽くしていた。 「持病でね。あっさりいなくなったの。私の婚約者」 あぁ、やっぱりな。 俺は目を伏せ居た堪れない気持ちに苛まれる。予想していたこととはいえ、やはり胸が締め付けられるような感覚に襲われる。じわり、と空気が熱くなったと感じた。 それからはぽつりぽつりと言葉を選びながら、どういった経緯で知り合い、どういった経緯で婚約者になり、どういう生活をしてきたのか、断片的に話し始めた。 今はもう骨になり眠る彼女の婚約者は一之瀬康平という名前で、の両親の知り合いの息子で小さな頃から学問所も同じ所へ通い、同じ習い事をし、そうだよく言うところの幼馴染と似た関係だったそうだ。 そんな2人に婚約だとか結婚だとか、そういった話が持ち上がったのは彼が幕府直下の役職に着くことが決まった頃で、2人の両親がせっかくだから結婚しなさい。となんとも軽いノリからのスタートだったらしい。けれどもまだこの頃は2人は若かったらしく本当にお互いがお互いのパートナーとしていいものなのか、考える時間が必要だと考え、すぐに結婚だとか籍を入れたりはせず、婚約者といういずれ結婚するかも知れない相手とお互いを認識しただけだったそうだ。 も言った通り、一之瀬康平には持病があった。なんでも気管支系の病気らしく彼女も詳しくはよく覚えていないと目を伏せた。ただ、それが遺伝的なものだったことだけは覚えていた。 その病気が原因で亡くなったのか、それとも仕事のストレスだとか過労だとかも手伝っていたのかは、今となっては分からない。婚約者となり、彼が息を引き取るまでは3年と少しの時間しかなかったそうだ。 最後の1年半は一緒に暮らしていたらしいが、はそこを多くは語らなかった。 彼が亡くなってから両親は実家に戻って来いとハルに言ったそうだが、がそれをよしとはせず、自分ひとりの身ぐらい自分でなんとかできると言い切ったそうだ。そこで古い知り合いから下に住むババァの店を紹介されそこで働く事がトントン拍子に進み、そしてそこで俺と出会ったのだとは目を細め懐かしむよう話した。 一之瀬康平という男は自分が普通の人間よりも命が短いということを身をもって分かっていたとは話す。誕生日だとかクリスマスだとかそういった行事や記念日にもらう物は形が残るものではなく、花束だったりどこかへ旅行へ行くだったり、とにかくその時にしか楽しめないようなものばかりだったそうだ。けれども俺が依頼を受けたあの簪が、一之瀬康平がへ渡した最初で最後の形の残る贈り物だった。だから失くしたと気がついた時はものすごい焦ったそうだ。未練がましくずっと身につけてきた、そうは目を伏せて寂しそうな声音で話した。 蝉が遠くで鳴いていた。 敷地に2段だけある階段へ腰を下ろした俺とはそんな話を一之瀬康平を背後に話していた。 「最期にね、」 さほど暑くはなかったがさすがにじっとしていれば汗が垂れてくる。 頬を伝うであろう汗を着物の袖でぬぐい、俺はの続きを待つ。 「あの人、俺は私の中での良い思い出になれれば本望だって言って、息を引き取ったの」 重いよねぇ そうは言いながら肩を揺らし笑う。 「でも、そんなことすぐにできるわけないじゃない?幼馴染から婚約者へ話が飛躍しただけかもしれないけど、たぶんそれ以上の感情があったわけだからさ」 「うん」 「だから私も、いい思い出 って言えるようになるまで、ここには来ないようにしようと思ってね」 下を向いていた俺の顔が反射的にを見た。 その気配に気がついたのか、彼女と視線が絡む。 「そうなるまで3年とちょっとかぁ。結構かかったなぁ…」 背中越しには墓石を見る。 つられて俺も首を向ける。 風に吹かれた献花が、ひとつ揺れた。 「銀さんに、1つ相談があってね」 さっきの風よりも一回り大きな風が吹く。 俺は目を細めたが視界には墓石をじっと眺めたが映っていた。 「私にはこーゆー、少しだけ重い昔の男があって、その人との思い出も少なからずまだ残っているけど、」 言葉を区切ったは、じっと俺を見つめ、ゆっくりとその薄紅の唇を開く。 「それでも、私は銀さんの隣に居て、笑ったり話したり、いろんなことを銀さんと体感したいって思っても、いいんだよね?」 俺は静かに眉根を寄せる。 そんな質問の答えなんて、考えなくたって分かってる。 少しだけ瞳が潤んでいるように見えるのはがこの時を持って、一之瀬康平との日々を『良い思い出だった』と区切るための決別の涙なのか、それとも俺の錯覚なのかは分からない。 けれど一つ分かる事は、俺にある感情と彼女の中にある感情がほとんど同じという事だ。 昨日の暴挙ともいえる行為が引き金になったのか、それとも元からこうした感情がの中にあって、けれども昔の男がいるから足止めを食らっていたのか…この際そんなことはどっちだって構わない。どっちだって、よかった。 「そんなん、」 久しぶりに空気を振るわせた俺の声は自分でも驚くぐらい掠れてしまっていた。 「いいに決まってンだろうが」 大歓迎だコノヤロー そう言ったらはこぼれるほどの笑みを寄越した。 「俺の懐はが思ってる以上にでけぇからな、そんぐらいの重さ、受け止めてやるよ」 本当は抱きしめてやりたかった。 けれど婚約者の墓前でそんなことはできなかった。罰が当たりそうだ。 目を伏せ、泣いているのか笑っているのかよく分からなかったがが消え入りそうな声で「ありがとう」と呟いたのはきちんと耳に届いていた。 俺は立ち上がり、尻の汚れを払うとそのまま墓前へを足を伸ばす。 その場にしゃがみこみ、写真でしか見たことのない男の前で静かに手を合わせる。 それを見ていたも俺の隣に座り手を合わせる。 「また来年、来るからね」 そうは呟くように言ったのが隣で聞こえた。 俺も目を伏せその場でしっかりと拝んだ。 しばらく俺ももその場から動かないでいた。 それから彼女は持ってきていた木製のバケツを手に取ると返してくるねと言って足早に背を向ける。 俺は気のない返事をして彼女の背中を見つめ、ふと思い返したように背後の墓石を振り返る。 どっしりとした威圧感は消えることはない。けれども来たときには無かった、優しい雰囲気がそこには生まれていた。俺は首の後ろをさすりながら、が遠くへ行ったことを確認し、その口を開く。 「は、俺がしっかり護るからお前さんは安心して見守ってくれよな」 俺がこれからに何をしても、何かが2人の間に起こっても化けて出てくれるな。そう念を押す。 そっと吹いた風が献花を揺らし、花がまた一つ頷くように揺れた。 来た時に会った寺の女に別れを告げて俺とは来た道をゆっくりとした足取りで駅へと向かう。 風景は相変わらず変わらない。変わったことと言えば、お互いがどちらからともなく手を繋いでいるというこのぬくもりだけだ。 「お腹すいたね」 「確かに」 思えば朝起きてから今に至るまで何も口にしていない。 この近くにおいしいお店があるからそこへ行こうとやけに張り切るを、今度は隣で見つめながら俺は目を細め了承する。あんみつがおいしいの。そう言われたら行くしかないだろう。 ふっと民家を通り過ぎた時、一匹のトンボが2人の前を横切った。 は立ち止まりそのトンボの行方を目で追った。 「…もう秋になるね」 「そぉだなぁ」 進みだす、季節。 歩き出す2人の影が、長く伸びるのも、もう時間の問題だ。 リナリア (私の恋を知ってください) 082208 |